花は、咲こうと思って咲いてません。
花はこの色になろうと思ってなってません。
もともとこうです。
与えられた生きられるその環境で、そのようになっているだけです。
頑張って努力して花びらを開き、この色を見せつけているのではありません。
本来から備わった機能を、そのまま発揮して、結果的に、みんなに喜ばれています。
今一度、
自分が何か無理をしていないか?
頑張り過ぎていないか?
何かを置き去りにしてはいないか?
問いかけてあげてください。
そのままでいいのに、そのままで充分なのに、何か違うものになろうとしているのだとしたら、とても苦しいはずです。
そんなものには、なれません。
自分の花を咲かせるだけでいいです。
あなたは、【今】のあなたを見てあげられているでしょうか?
100%自分の味方になってあげられていますか?
生まれてきた意味は、そこにあります。
何も、≪いきなり≫≪すぐに≫慈愛に満ちたオールマイティな人になることが目的ではありません。
そうなっていく【過程】に意味があり、それを苦しみながら楽しむことで、自分の【正体】と【尊さ】がわかってきます。
ダメな私でいいんです。
それが、出発点です。
どんなに高尚で素晴らしい目標があっても、【今】という出発点がわかっていないのに、そこへは到達できません。
スタート地点を把握していないカーナビが、ゴール地点だけを設定してそこへ辿り着けるなんてありえません。
たびたび「オールマイティな人になりたい!」といった趣旨の発言を聞きます。
確かに、目指すべきところはそこです。
けれども、オールマイティになれていない【今】の自分にも、優しくなってあげてください。
イヤなこと、イヤな人、身体の弱い自分、すぐ怒ってしまう自分、不機嫌になってしまっている自分・・・・それはあってもいいし、あって当然。
すれ違う知らない人の中に闇が見え、それを嫌って遠ざけたいと強く感じてしまうのであれば、あなたの中にも、その闇があります。
闇は必ずあるもので、嫌うものでも、何でもないです。
わざわざ嫌うのは、自分の中にある、それと同じ闇が嫌いでイヤなだけです。
『あぁ、【今】私はそう感じているんだな・・・・』って受け容れ、そんな自分にOKを出していくだけの日々は、苦しくても楽しいです。
OKを出すとは、毎瞬毎瞬、【自分を褒めること】【自分を認めること】です。
【どんなときも、自分が自分の味方になってあげる】ということです。
勘違いしてはならないのは、『受け容れるとは、現時点の自分の内面をそのまま許して<放置する>ことではない』ということ。
「あの人はこんなことをするからイヤ!」とか「この虚弱な身体がイヤ!」とか、『イヤでいいのよ!!』と、まるで意固地になってしまったり、なかったことのように立ち振る舞うことではありません。
それでは、<自分勝手>で<不機嫌>で<迷惑な人>になっていってしまいます。
<放置する>のは、ネグレクトという<無視>です。
それは、最も悲惨な、自分への虐待でもあります。
自分からの虐待を受け続けた人は、残念ながら他人に対しても、「あぁなの!」「こうなの!」と、毒を撒き散らしてしまいます。
もっと、自分に優しい人になっていきましょう。
本来の自分を思い出していくということです。
それが、【今】のダメな自分も受けれ容れ、味方をするということ。
『私って、なんてダメなんだろう!』って、笑ってあげるということ。
スタート地点を把握して(受け容れて)から、ゴール地点の設定をすれば、必ずそこへ到達できます。
いつか、【スタート地点にすでにゴールが同時に存在していたこと】にも、後になって、氣づけます。
それほど、自分を受け容れるとは、素晴らしくダイナミックなものです。
様々な状況や人を許容し、認め、愛し、優しさで癒せる『オールマイティな人になりたい!』と思うのは当然であり、良いことではありますが、【今】の自分がわかっていない(スタート地点の設定をなおざりにしている)のに、いきなり、オールマイティというゴール地点を≪自分へ付きつけてしまう≫と、とても苦しいはずです。
【今】のありのままの自分を放置してしまったら、あなたの味方が居なくなってしまったのと同じです。
ダメな今の自分が変容していく、その過程を、ぜひ楽しみましょう。
苦しい私を笑ってあげるんです。
それが、自分を信じるという確固たる地盤になります。
そうやって、美しい花道を築いて来ていたことに、いつか氣づける日が必ず来ます。
ありのままのあなたという【今】に、ゴールが既にあります。
それが、あなたという神とともに歩む成功道です。
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