年末にNHKの紅白歌合戦を見ました。
その中で、米津玄師さんというアーティストさんを初めて拝見し、とても驚きました。
写った瞬間、もの凄い天才だと感じました。
少しニュアンスは違いますが、初めてSEKAI NO OWARI の Fukaseさんを拝見したときと似たような衝撃でした。
米津さんやセカオワさんをご覧になった方々の多くが、何か響くものを感じたことと思います。
そして、その振動により、何か突き動かされるようなものを感じたのではないか?と思います。
その響くもの、突き動かされるものというのは、おそらく、多くの人が触れないようにしてきた【タブー】な部分なのではないでしょうか。
ここで言う【タブー】とは、
★★★★
○○でなければならない。
けれども、○○で居られない。
そもそも、○○でなければならない・・・というのは、間違いなのではないか?
○○でなければならない・・・・という枠組みにおさまれない自分は何者なのか?
★★★★
という思いです。
これは、多くの人が抱く疑問であるのにも関わらず、ただただ常識的に生きていたのでは解明することのできないことです。
この種の【タブー】は、【究極の自己探求】につながるがゆえに、それに没頭し追求していくことは、『自分勝手』なことであり『自分以外の人にとって迷惑なことである』と感じさせられているのが常なんです。
だから、『触れたり追求したりしてはいけないこと』のように思い込んでしまっていることでもあります。
NHKの紅白で年越しという特別な時期に、米津さんやセカオワさんのような方々が、多くの面前で活躍されているところを拝見していると、【個が尊重される】良い時代になったな・・・・と思います。
多くの人々が、『触れてはいけない』『追求してはいけない』と思い込んでしまった、自分の中にある【タブー】を認め、《解放していく光》を、芸術というスピリットにより届けて下さっているように思います。
しかしがなら、まだ一方では、
・誰とでも仲良くできる人
・調和を保てる人
・礼儀正しく善良な人
こういった【個よりも全体の調和を重んじる立派な人】になり、そうあることが良いこととされる風潮は、まだまだ根強くあるように思います。
これが、いわゆる【常識】と呼べるものです。
本当は、
・誰とでも仲良くできないのが当たり前であり
・調和どころか衝突するのが当たり前であり
・いつでも礼儀正しく善良ではいられないのが当たり前
です。
では、常識が間違っているのか?というと、全くそうではなく、一度を常識を疑って冷静に【タブー】という自己探求をしてみることで、不思議と常識的な調和のとれた人になっていくものです。
【個を尊重し認める】ことで、【全体への感謝が湧きおこる】からです。
時代も人も、良くなる前は、必ず、悪くなったように感じます。
バランスを崩したかのように感じるのです。
なぜなら、次の段階へ上がるときというのは、右肩上がりに上がるのではなく、らせん階段を上がるようにスパイラル状に昇るからです。
【タブー】に触れ、自己探求していくことで、一旦、バランスを崩し、スパイラル状に昇っていきます。
【常識】の裏側に【タブー】があり、【タブー】の裏側に【常識】がある・・・・
両者は表裏一体で成立していて、両方があってこそ、スパイラル上昇が生まれます。
らせん階段を昇っていくと、違うとこへ向かって行っているかのように見えて、実は、同じところに戻っています。
しかし、同じところに戻ったかのように見えていても、前より数段階上に昇っているものです。
きっと、これから、より多くの人々が目覚め、自分という個の本質に氣づいていくのでしょう。
個の露出による、全体の調和の時代となっていくはずです。
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