人間関係において、何か拭いきれない感情が湧き出してきたときや、どうしても氣になってしまうことが起こったとき、賢明な人なら、『相手には相手の立場もあるんだ…』とか『相手の氣持ちも理解しなくちゃ』と思うことでしょう。
この手法をとることは当然に必要なことです。
しかし、もし、自分が、
《同じような現象》に繰り返し出逢い、
その度に《同じような感情、思考》をたどり、
《同じような言動》を繰り返しているのであれば、
それは、もはや、
『相手には相手の立場もあるんだ…』とか
『相手の氣持ちも理解しなくちゃ』といった
常識的な思考や知識では進歩しないことです。
例えば、「私の知り合いで、こんなことする人が居てね……。」「私の親は〇〇で……。」「私の子どもは〇〇で……。」「私の夫(妻)は、〇〇で……。」と、特定の人や出来事を取り上げて、もはや考えたり言ったりしても仕方のない不毛な言動を繰り返している場合が、これにあてはまります。
思考や知識で、自分に起こった現象や感情を理解しようとしたり、他者を理解しようとしたりしても、それは、本質には至らず、不毛なので、やはり同じ事が繰り返されてしまうんです。
本質的には、他者を理解するということは無理なんです。
よく『自分の捉え方の方を変える』という手法がありますが、多くの人は、これをやろうとするとき、やはり、思考や知識でやろうとしてしまうので、本質的に捉え方が変わることはありません。
それどころか、もっと知識を得るためにさらに勉強してしまったり、もっと思考してしまったりします。
捉え方を変えようとしても変わらないから、もっともっと!と勉強するし、もっともっと!と思考してしまうんです。
これは、ドツボです。
捉え方というのは、選択できるのですが、その選択機能が働いてないことが、多くの苦しみを生んでいます。
また、捉え方に一定のクセがあることが、多くの苦しみを生んでいます。
本質的な意味で、他者を理解することは、不可能である………としたら、どうしたら良いのでしょうか?
そうです。
自分というものをより深く理解していくしかないんです。
すべての元、すべての因は、自分の中にしかありません。
自分を理解するために、また勉強して知識を得たり、思いを巡らせよく考えようとしたりしてしまいがちですが、やはり、これもドツボです。
知識はさほどいりません。
思考も不要です。
実は、やることは、【身体と心の掃除】です。
はらい、清めていくということ。
何も難しいことではありません。
床が汚れていたら、雑巾で床を拭くのと同じように、身体と心を本当に拭き取っていくんです。
やり方は、まさに、雑巾がけと同じです。
知識の蓄積も思考も必要ないし、とても簡単で、楽で、楽しいものです。
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