《福井つよきさんのFacebook投稿から引用》
人生の節目節目で
大切な決断をしてきた
その"決めた思考"は
一体どこから来たのか?
本当に自分で決めたのか?
"聖なる全体"の
バランス中で
自動的に
心に湧いてきたもの
ではないか?
だとしたら
人生の責任者は自分ではなく
責任は聖なる全体にある
すべては
完璧な愛のバランスの中で
自動的に起こっている
愛以外ない
すべて委ねる他ない
それで いい
ムダな抵抗をして
苦しむ必要はない
安心して
今を生きたらいい
それでいい
《わたしの子どもの時からの体感》
つよきさんの書いておらる通り、全人類が、実は、こう。
自分が思考し、自分が決定・選択し、成功したり間違ったりしたと思ってる。
でも、本当は、そうではない。
『自分が、』『私が、』っていうのは、実は、1つもなくて、『○○が、』っていうのも1つもない。
全体というくくりさえもない全全体という全ての中で、わたし達は、流されているだけ。
抵抗しても、あがいても、結局は、真実は、委ねながらイノチ生かされてる。
だから、何ごとも、安心してていい。
不安で心配で怒ってあがいてても、その中で翻弄されながらも、安心してていい。
幸せで安心で平和を感じてるなら、その中で、どこまでもくつろごう。
何かを求めても求めなくても、どちらにせよ、今あるものは流れて、来ることは来る。
私は、今、人間をやっている。
宇宙人だった頃の記憶も全くない。
普通の人だ。
なのに、私という人も、守護霊も天使も精霊も、神も仏も、賢者も覚者も、究極的には存在せず、唯一存在するのは、内発的なわたしだけである…という確固たる自信だけが、ずっとある。
こんな唯一無二の真実を、知らないふりをしたり、忘れたふりをしたりして、ここで、人間の感情に翻弄されることを愉しんできた。
他者との共鳴の中で自分の中心を見失うこともあった。
けれど、私は私の背景こそがわたしの真実だという自信だけは、一度も失えなかった。
肉体が苦しすぎて、ぶらぶらと首をつって呼吸が止まっていた時でさえ、ウッカリ死んだところで死ねないこともわかっていた。
ここは、単なる劇場であり、最高に素晴らしい劇場。
どんな悲劇も喜劇も、悦びでしかない。
翻弄されたり見失ったりすることは、ここでしか体感することのできない尊いプロセスであることを、改めて今、体感し、その悦びに震えている。
すべてが、光。
完全無欠を忘れた人間でなければできなかったこと。
それらは、すべて、最幸の光の粒たち。
わたしがあなたに還るまで、あなたがわたしに還るまで、わたしはあなたをどこまでも抱きしめる。
わたしが笑えば、あなたが笑う。
あなたの微笑みが、わたしの光。
ここは、生きがいの里。
ありがとう☆彡
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